セックスありきの結婚生活が人妻を欲求不満にする
不倫をしてセックスを重ねてしまう「人妻」に対しては、その特徴として「欲求不満」という言葉が使われがちな傾向があります。
「欲求不満」という言葉で語られることになる人妻については、「とにかく性欲が強く、『夫』という一人の男性とのセックスでは満足できないため、一つでも多くの陰茎をその女陰でもってくわえこむ必要があるのだし、また、どれほどの数の陰茎をくわえこんだとしてもその性的欲求不満が完全に満たされることはないのだ」というような「セックス好き」のイメージで語られる場合がほとんであるように思います。
「『欲求不満』の『人妻』というのは『セックス好き』の性欲が強すぎる人妻であり、『夫』との性生活に不満を感じたり、『セックスレス』に陥ったりしている。これこそが、人妻が不倫という不埒な行為をおかす原因であるのだ」というような、「人妻の性欲」に根拠をおいた「不倫」の説明は、確かに、ある程度は本当なのでしょうし、説得力もあるように感じられます。
このような「本当にセックスが好きすぎて仕方ない」という「性豪型の人妻」がいる、ということは、もちろん否定することができません。ですが、私は、「欲求不満」と称される「人妻」のすべてが、このような「性豪型の人妻」ではないと考えています。
結婚生活と性生活の結合という前提のおかしさ
私は、個人的には、「結婚」と「セックス」というものを必ず結びつけて考えるような「結婚生活と性生活の結合」というその「前提」にそもそもの疑問を抱いています。
「セックスレス」という言葉に対して、私はなんともいえない気持ち悪さを感じているのですが、この気持ち悪さは、「結婚生活と性生活は結合していなければならない」という前提によって、「セックスをしない夫婦は間違っている」といわんばかりの空気が醸成されていることからくるものであると考えています。
「セックス」をほとんどしていない状態でも、夫婦の関係は良好に保つことができるはずです。
「夫とのセックスレスで悩む」というような事態は、「結婚生活と性生活の結合」という前提を無思慮に受け入れた、あるいは、押し付けられた結果でしかないと私は考えています。
「セックスレス」などが原因で「不倫」を繰り返す人妻がいる場合、「その人妻が『セックス好き』であるために『欲求不満』なのだ」ということを言及するよりも、「夫婦生活には必ずセックスがなければならない」という考えのもとに結婚をしてしまった夫婦における「愛」や「幸福」の欠如という観点から、「人妻」の「欲求不満」を考えていく必要があるように思います。
「欲求不満」といわれる「人妻」のほとんどは、「セックス」というものを誤解していたり、過大な評価を与えている女性たちであって、本当はそれほど「セックス」を欲していないのだ、と私は考えています。
「欲求不満の人妻」が、「夫以外の男性」と「セックス」をしてまで本当に手に入れたがっているのは、「愛情」や「幸福」と呼ばれるような、精神的な領域にあるものなのではないでしょうか。
セックスは愛情をはかるための「ものさし」ではない
「セックスレス」という言葉は、「夫とセックスをしていない」という状態が「愛情の欠如である」ということを人妻に思い込ませる強い力を持っています。
「セックス」というのは愛情なしに遂行できる行為であり、また、「愛情」や「幸福」をはかるバロメーターでもありません。にも関わらず、「セックス」という行為は、どういうわけか、男女の「愛情」や「幸福」の度合いをはかるものとして扱われてしまう傾向があります。
なにも、私は「愛のあるセックス」というものを全面的に否定したいのではありません。「セックス」を通して実感することが可能な「愛情」や「幸福」というものも確かにあるでしょう。
ただ、私は、「セックスでパートナーとの愛情を確かめるということには限界があるのではないか」と考えているだけです。
「結婚生活と性生活の結合」というなぜだか自明となっている前提を疑いさえすれば、「人妻」は、「性生活」以外の方法で「結婚生活」を満たす方向性で思考を開始し、「結婚生活」を良好なものへと練り直すことが可能になるでしょう。
しかし、この「結婚生活と性生活の結合」という問題が見えてこない場合、「人妻」は「セックス」というバロメーターにたえず振り回されながら、「夫とのセックス」を通して「愛情」と「幸福」の欠如を実感しながら日々を送ることを余儀なくされます。
「夫以外の男性」という選択肢は、「夫との性生活からは得られない愛情や幸福」という「不満」を埋めようとするときに、はじめて出てくるものであるように思われます。
「セックス」という「快楽」だけが、その「人妻」にとって「愛情」と「幸福」をはかるバロメーターである場合、「夫以外の男性」との快楽的で刹那的な「セックス」を通して、「夫」から受ける以上の「愛情」や「幸福」を実感することが可能でしょう。
しかし、それが「セックス」である以上、そこで実感することになる「愛情」や「幸福」というのは焼け石に水といいますか、単に快楽的で即物的な「セックス」で終わる場合がほとんどであると言わざるをえません。
「セックス」を「愛情」や「幸福」の基準にしている限り、相手を次々と変えて行われる性行為の遍歴は、「ああでもない、こうでもない、いや、もっと、きっと……」というような感覚とともに、果てしなく続く、終わらないものになっていくことでしょう。
結婚生活の「不満」は初期の「満足」の設定に問題がある
人妻は、「結婚生活」の何に不満を抱き、そして、「セックス」を通して一体何を埋めようとしているのでしょうか。ここを見ていくためには、「どのような結婚が『満足』とされているのか」ということを、多少考えていく必要があるかもしれません。
「結婚」を通して、「幸福」を過剰に実感しようとするタイプの人間は、男女関係なく存在します。
このような男女は、「結婚」によって誰もが獲得できるということに一応はなっているらしい「幸福」さえあれば、人間が地上に生を受けた以上は宿命としていやおうなく抱え込むことになる根源的な「孤独」を埋めてしまうことができる、ということを無前提的に信じきっている傾向にあります。
「孤独」というのは、そもそも、「パートナーがいない」という意味ではありません。「孤独」という感覚は、「人のなかにいる」ようなときにも感じられるものであって、人間のなかから完全に消失するような感覚ではありません。
恋人、伴侶、子供、家族、友人、知人といった、これらのすべての「他者」は、基本的には、個人が宿命として抱え込んでいる「孤独」を埋めるための道具ではありません。
「人は一人で生まれてきて一人で死んでいく」というのは、ありふれた言い方ではありますが、ある真実をついているからこそ、ありふれた響きを持つのかもしれません。
「孤独」という穴は完全に塞がるものではなく、それを引き受けて見据えながらともに生きていくものであります。
「孤独」を受け入れて生きている者同士が、おたがいに「一人きり」であることを知りながら「共生」をしていく、というような「結婚」であれば、「孤独同士が生き延びていくための共生」ということが何よりも重要になってきます。
ですから、「孤独」を見据えた夫婦である場合、「幸福」という「世間的な空気」によって担保された価値基準をわざわざ確かめたり、求めたり、その価値基準に支えられたりして自分たちの結婚生活を維持する必要がありません。
「孤独」は人間にとって「あたりまえ」の感覚であるのですから、「孤独」それ自体は「幸せ」でも「不幸せ」でもありません。「孤独」というものは、「幸福」という基準とは、そもそも別の場所にあるものなのです。
ところが、「孤独」というのは、「幸福」という基準とからめて語られてしまう傾向がどうしてもあります。
「孤独である」ということは、「不幸である」ということとイコールで結ばれてしまうことが非常に多いのですが、もし「孤独」が「不幸」であるのなら、「孤独」から完全には逃れることができない人間という生き物は、全員が「不幸」ということになってしまうでしょう。
ところが「孤独である」ことと「幸福である」ことは両立できます。これはまた、もちろん、「孤独である」ことと「不幸であること」についても同じように言うことができます。
解消しないものを解消させようとする不幸
「結婚」は、「孤独」を埋めるものではありませんし、「孤独」が「結婚」によって埋まらないからといって、その夫婦が別に「不幸」であるわけではないのです。
「結婚」を希望している、あるいは、実際に「結婚」をしている男女のなかには、「結婚をすることによって孤独から“いち抜け”できる」ということを思い込むタイプの人達がいるのですが、これは少しばかり危険な勘違いだと言わざるをえません。
このような、「結婚によって孤独が即座に解消される」というような勘違いを出発点とする結婚生活は、多くの場合、「愛情」や「幸福」に対する強迫観念へと繋がっていくことになるでしょう。
「孤独」と「幸福」という「別の場所にあるもの」に因果関係を与えるような思考をしてしまいますと、「結婚」と同時に消えてくれるはずだった「孤独」が、消えてくれないどころか、ときおり強まったりもする、というようなときに、「こんなに孤独感があるということは、この結婚は失敗であって、私は不幸なんじゃないだろうか」という不安にかられることになります。
そして、結婚生活は、この「不安」を解消するために、「不幸」ではないこと、つまり「孤独」ではない、という状態をつねに求めつづけながら、空転しはじめることになるでしょう。
「結婚生活によって『孤独』を埋めることができない以上、その外側の場所に『孤独』を埋めるものを探さねばならず、『幸福』を獲得していかなければならない」という焦り、この種類の「孤独であってはならない」だとか「結婚生活における『幸福』を実感」するという強迫観念が、もし、「セックス」と結びついてしまった場合、「人妻」の結婚生活はかなり危機的なものになるでしょう。
「セックス」が「幸福や愛情をはかるものさし」ではない、ということはすでに書いたとおりです。「セックス」もまた、「結婚」と同じように、人の「孤独」を完全に解消しないものであります。むしろ、皮膚を重ね合うことによって「孤独」を実感させたり強めてしまう、というようなこともあるでしょう。
「孤独とは不幸である」という思考のもとで、「セックス」を「愛情」や「幸福」をはかるための「ものさし」にした場合、結婚生活というものは、「セックスによって『孤独』が解消できるかどうか」の勝負になり、性生活に依存したものになってしまいます
「セックス」で「孤独」を乗り越えようとうする場合、夫相手の「セックス」で「孤独」が埋められなかった場合、次は、「夫ではない男性」との「セックス」で埋めようという方向性へと変化していきます。
また、「セックスレス」と言われるような、その言葉自体が「結婚生活と性生活の結合という病理」である状態に結婚生活が陥った場合、「孤独は不幸」であり「セックスがないということは、そこには愛情も幸福もないということなのだ」という考えを持っている「人妻」にとっては、「性生活の不在」が「孤独の耐え難さ」そのものとして感じられるでしょう。
しかし、「不倫」をいくら重ねたところで、「人妻」から「孤独」の感覚が消える、ということはまずありません。そして、「幸福という強迫観念」にかられてセックスを繰り返している限り、「孤独」を「不幸」として感じてしまう人妻のなかに、「幸福」という感覚は決してやってこないのです。
人妻好きの男性は人妻の「満たされない部分」につけこもう
「人妻好きの男性」は、このような「結婚生活」や「セックス」によって改めて感じることにもなった「孤独」を、なんとか「セックス」で埋めようとしている「人妻」を多く相手にすることになります。
ここで、「人妻」に対して「セックスを通しても孤独は完璧には埋まらないし、孤独であるということは不幸でもなんでもない。普通の状態だよ」などとわざわざ言ってあげる必要はありません。それは、野暮というものです。「人妻好きの男性」は、このような「人妻」に対しては、「セックスで孤独がうまるよ」というような態度をとればよいのです。
「人妻」と重ねるセックスは、その「人妻」が「この人を相手にしたセックスでも、やっぱり、私の孤独は埋まらないんだ」ということにうすうす感づくあたりまでは継続的に行うことができるでしょう。
「人妻好きの男性」は、「欲求不満」とされている「人妻」が強烈に求めている「愛情」や「幸福」というものを自分ならきっと与えられますよ、という態度を「人妻」に対して見せることによって、高い確率で人妻とセックスすることが可能です。
この場合、「幸福」に飢えて「セックス」をする人妻の「依存しやすさ」には気をつけなければならないでしょう。依存をされて面倒事に巻き込まれそうになったときに、その人妻からすぐに距離をおけるように「トンズラ」の準備を周到にしておくくらいの配慮はしておくとよいのではないかと思います。
上記したような「精神的欲求不満」の「人妻」と比べて、「セックス」というものに「愛情」や「幸福」というものをまったく付与せずに、純粋に「快楽的」なものとして「セックス」を捉えて楽しんでいるタイプの、いわゆる「性豪的な人妻」、「肉体的欲求不満」の「人妻」に対して、私は、個人的に、かなり好感を抱いています。
「セックス」に「幸福」だとか「孤独」というような観念を持ち込むことがなく、また、「家庭生活と性生活の結合」もしていないタイプの人妻の、「セックスがしたいと思った相手とは、セックスがしたいときにする」というような快楽主義的な態度は、成熟したものであると思います。
夫に理解があれば、「性豪的な人妻」たちの「結婚生活」はうまくいっているだろうと思います。彼女たちの「結婚」は、おそらく、彼女たちの「セックス」と同様に、「孤独な人間は幸福ではない」というような「不幸な考え」とは切り離されたものであるでしょう。