人妻の条件

恋愛という観念にすがりつく人妻の幻滅

「結婚」「恋愛」は違います。「人妻」と呼ばれる存在は、ほとんどの場合は、それを自覚したうえで、「恋愛」という観念とは一度おさらばして結婚生活へと突入するのではないかと思います。

「人妻」がもし「失敗した結婚生活」を経験する場合、そこでは、「夫」という存在なり、「結婚」という味気ない生活への実態なりが、「幻滅」の対象となるでしょう。

「人妻」が、「幻滅」から「こんなはずではなかった」というような後悔を抱きはじめる場合、「こんなはずではない」のですから、同時に、「となると、こんなはずであった」という新たな「理想」のようなものが「人妻」のなかに芽生えてくるはずです。

そのとき、新たな「理想」として「人妻」のなかに芽生えてくるものは、おそらく、「恋愛」という観念なのではないでしょうか。

しかし、この「恋愛」という観念が実に厄介でとらえどころがない、ということを、多くの「人妻」は知りません。「人妻」は、そうと知らないまま、なんとなく「恋愛」を欲望してしまうのです。

結婚への幻滅による恋愛の再発見

結婚への幻滅による恋愛の再発見

「結婚」「恋愛」の違いにある程度自覚的な人妻である場合、「『恋愛』などは『結婚』のなかにはない」といって結婚生活を始めるのですから、「人妻」にとって、「恋愛」という観念は、一度打ち捨てられ、別れを告げられた観念である、ということになるでしょう。

ところが、「夫」「結婚」というものへの「幻滅」は、一度は墓場に葬り去ったはずの観念であるところの、この「恋愛」という観念を蘇らせることになります。

「幻滅」をきっかけに蘇生することになった爛れた観念であるところの「恋愛」は、「きっと、こんなはずであった、こうあるべきであった」というヴィジョンの再構築のために大いに力を発揮することになるでしょう。
そして、人妻は、「結婚生活」からは見出すことができない「恋愛」というあやふやな観念を求めて、「不倫」「セックス」などの行為を開始するのです。

その「不倫」「セックス」は、「そこにきっと恋愛がある」ということを信じていられる間に遂行され、「そのような行為のなかには恋愛などはどこにも見出すことができないのだ」ということに気付かされて「恋愛」という理想的な観念にあらためて「幻滅」するその日まで続けられることになるでしょう。

恋愛という人工的な観念について

恋愛という人工的な観念について

「人妻」「恋愛」について考えていく前に、少々立ち止まり、「恋愛」という言葉にまつわる基本的なことを改めて考えていきたいと思います。
「恋愛」というものは、「男と女が出逢えば『本能』のままに行われる」というような、「人間の自然な営み」ではありません。

「自然の営み」でも「本能」によるものでもない「恋愛」は、「人によって作られた観念」であり、時代ごと、共同体ごとのコードによって左右される「文化的な営み」です。

たとえば、江戸時代には、「恋愛」と呼ばれる観念がなかったと言われています。この「なかった」というのは、明治時代において北村透谷によって発明された「近代的な恋愛観(肉欲を切り離した純粋に精神的な恋愛、という観念)」というものが「なかった」という意味です。

現在でも、「恋愛」という言葉を使うときに、「セックス」というものと「恋愛」を切り離し、「恋愛」における「精神」の優位性を主張する人がいますが、このような「恋愛」の観念の持ち主は、前述した「北村透谷の近代的な恋愛観」を引き継いでいるかたちになります。

「近代的な恋愛」という意味の「恋愛」の観念がなかった江戸時代にも、当然ながら「男女の営み」はありました。その男女の営みは「好色」と呼ばれるような、「セックスと情念という二項対立が設定されていない男女関係」というかたちをとっていました。

「精神的な愛」という後々開発された「近代的な恋愛」の観念がなかった以上、「恋愛」と呼ばれることになりそうな男女関係が、たかだか「セックス」ぐらいでは壊されることもなく、渾然一体となっていたのです。

曖昧にハイブリッドになった「恋愛」

「近代的恋愛観」にせよ「好色」にせよ、「男女の営み」である「恋愛」に属する人為的行動は、時代や共同体が発明した特定のコードによって成立するものです。

「自然」「本能」のままに「恋愛」をしている、と思い込んでいる人が、「近代的恋愛観」を知らず知らずのうちになぞっているだけであり、「精神的な愛」という「書かれたテキスト」を再現しているだけであることに気付いていない、ということは往々にしてよくあることです。

たとえば、現代における「セフレ」という関係性は、おそらく「好色」的であり、個人的には成熟したものであると感じられるのですが、「セフレ」という関係性を「恋愛」である、と考える人はあまりいないはずです。

そう考えると、現在も、「恋愛」という言葉は、どちらかというと「近代的恋愛観」の射程のなかにあるといえるでしょう。「恋愛」は、百年かちょっと前に「人間」によって「発明」された観念でしかないものが、さも「自然」であるかのようにいまだに使われている、という状態にあるのでしょう。

「恋愛」という言葉で言いあらわされる観念は、現在においては「近代的恋愛観」をベースとして引き継ぎつつ、その「精神的な愛」の成就とともに「肉欲的なセックス」をしてもよく、その「セックス」「『精神的な愛』に含まれるもの」になっていく、というような、いいとこどりのハイブリッドな形態をとっているように私には思われます。

というより、この「ハイブリッドな形態」という「恋愛」の曖昧さは、「北村透谷による近代的恋愛観」という「恋愛の観念にまつわる一つのターニングポイント」が忘れ去られたまま、多くの人が「恋愛」に対して大雑把になって無自覚に混同していった結果でしかないのかもしれません。

江戸時代の「好色」には、「野暮」「粋」というような価値基準がありましたが、現在の、「近代的恋愛観」の先にゴールのように待ち受けているセックスには、そのような価値基準はおそらくないのではないでしょうか。

人妻は「恋愛」をよく知らないまま不倫をする

人妻は「恋愛」をよく知らないまま不倫をする

さて、このように言葉一つとっても自明ではなくコードが複雑であり、違った行為を指すこともある「恋愛」というものを、「人妻」がおおまかな態度で欲望しはじめるとしたら、その人妻が求めている「恋愛」という言葉は、どのような「恋愛」を指すことになるのでしょうか。

人妻が求めている「恋愛」は、「近代的な恋愛観」なのでしょうか。それとも「好色」的なものなのでしょうか。そのどちらも混じり合った「曖昧なハイブリッド」なのでしょうか。

これに関しては、「人妻」によって人それぞれとしか言いようがない部分ではあるのですが、あえて「ほとんどの人妻は」といってしまう危険をおかすならば、「人妻」は、このようなことはまるで考えず、「とりあえず」といった感覚で、何も考えずに「恋愛」を欲望しはじめることになる、というのが私の手応えとしてはあります。

結婚生活に満足できず、「恋愛」を欲望しはじめる人妻は、最終的には、ほぼ確実に、「姦通」とよばれるような不倫のセックスにたどりつく傾向があります。

もし、「人妻」が理想として掲げる「恋愛」というものが、「近代的恋愛観」のみに限定される「恋愛」であれば、おそらく「不倫」という状態はあっても、そこに「セックス」は必要ありません。「近代的恋愛観」によって理想とされる「恋愛」において、肉欲はむしろ不要であり、排除すべきものであるからです。

ですが、ほとんどの「不倫」と呼ばれる関係は、「人妻」「夫以外の男性」との「セックス」を伴っています。「人妻」「夫以外の男性」と関係を持つとき、意識的にであれ無意識的にであれ、「セックス」という選択肢を受け入れてしまう「人妻」が選んでいるのは、「好色」に属する「恋愛」であるのです。

「近代的恋愛観」にあこがれた人妻が、「近代的恋愛観」を満たすために「好色」に属する恋愛行動をとってしまう場合、その行動は、「『恋愛とはなにか』という思考や定義が人妻のなかにない」ということを証明するような行動になるのではないか、と私には思われます。

思慮の足りない人妻の恋愛は幻滅へと向かう

人妻が、「恋愛」という観念にまつわるコードをある程度知っており、自覚的に「好色」という観点を持っているのであれば、おそらく、「夫以外の男性」との「セックス」というものに疑問を抱く必要もないままに、「セックス」を大いに楽しむことができるでしょう。

しかし、そのような自覚を持つ人妻は、はじめから「恋愛」ではなく「セックス」を求めているのかもしれません。

あるいは、「セックス」というものが「恋愛」の一つのあり方である「好色」になりうるということを単に知らないだけともいえます。

これらの「好色」に属する人妻が、「近代的恋愛観」という意味における「恋愛」を求めている人妻以上に「セックス」を通してたくさんの「恋愛」を経験してしまっている、ということにも、彼女たちはおそらく無自覚であるでしょう。

かたや、「精神的な愛」を優位におき、肉欲を退けることによって成立する「近代的恋愛観」というものを、明確にではなく、「なんとなく」欲望してしまった人妻は、その思慮足らずの曖昧な欲望によって、「夫以外の男性とのセックス」を通して「私が求めていた『恋愛』とは、このようなものではなかったはずだ」というような不満を抱くことになるのではないかと思います。

おそらくは「セックス」がメインになっていくであろう「夫以外の男性」との交際において、「精神的な愛」であるとか「胸のときめき」のようなものを見出し、かつ、「恋愛」の状態を維持していくことはきわめて難しいといえるでしょう。

「セックス」を通して、「精神的な愛」のようなものが否定されていくのが「近代的恋愛観」なのですから、人妻は、「不倫」を通して二度目の「こんなはずではなかった」を感じることになるはずです。

このような人妻は、「恋愛」に対して「幻滅」するまで、「理想」というカルピスの原液を精液で薄めていくような「セックス」を重ねることになるでしょう。

今回の不倫では「恋愛」はうまくいかなかったけれども、次の相手となら、という「希望」が、少しずつ「セックス」によって摩耗していき、人妻が「理想」として抱いた「近代的恋愛観」という意味での「恋愛」はゆっくりと真綿で首を締めるようにして衰弱させられていくことになるのです。

恋愛テクノロジーを駆使して人妻とセックスする

「恋愛」は、本能ではなく人為的なものです。
ですから、「人妻好き」の男性たちは、出会った人妻の「恋愛観」を察知することがわかれば、その人妻の「恋愛観」にあわせた方法による交流によって、「人妻」とのセックスを獲得していくことができるでしょう。

相手となる人妻の「恋愛」というものが、「近代的恋愛観」をベースにしているものであった場合、「人妻好き」の男性は、その交流の初期の段階において、「人妻」のロマンティックな部分をくすぐるような言動を心がけるとよいでしょう。

その場合、「人妻好き」の男性が「近代的恋愛観」の持ち主である必要はありません。「近代的恋愛観」を持つことよりも、その「近代的恋愛観」にのっとった「恋愛テクノロジー」を駆使しながら「近代的恋愛観」の持ち主を模倣することのほうが重要です。

「近代的恋愛観」をベースにした「人妻」の理想を巧妙に慰めながら、その恋愛の延長線上には自然と性行為がある、というような流れを巧妙に作り出せば、「近代的恋愛」の基盤となる「精神的な愛」「肉欲」によって破壊されてしまう、というところまで思考が及んでいない「人妻」とセックスをする流れは容易に作り出すことができるでしょう。

そのようなセックスによって、「人妻」「結婚への幻滅」とともに抱き始めたロマンティックな「近代的恋愛観」というものは破壊されることになるのですが、そのような「人妻」の内的事情は、セックスがしたいだけの「人妻好き」の男性が関与することではないので、容赦なく、迷うことなくセックスを行うようにしましょう。

相手が「好色」タイプの恋愛観を持つ「人妻」であった場合は、「恋愛テクノロジー」のようなものをわざわざ駆使するまでもなくセックスに持ち込むことができるでしょう。性的に成熟した観念を持っている人妻は「話が早い」のが特徴です。

この場合は、逆に、「人妻好き」の男性のほうが「近代的恋愛観」を持たないことのほうが重要になってくるでしょう。人妻セックスを通して相手の人妻に「精神的な愛」などが優位に立つ感情が生じてしまった場合、おそらく、双方に歓迎できない亀裂が走ることになるでしょう。